掛橋和泉吉長の墓

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(1835〜1862)
通称を順次といい、掛橋家の養子となり神職をつとめる。那須俊平の門人となって剣と読書を学び、勤王の志あつく、文久2年(1862)尊皇攘夷の声高まり同志は次々と脱藩して国事に尽くしたが、掛橋家は裕福であったので志士たちの資金援助を行った。義母はこれを知り叱責がきつく、和泉は事実を語ると同志の秘密を知らせることになり、それかといって義母をあざむくことはできない。苦悶の末死を決し、同志玉川壮吉を訪ね意中を語り死後を託した。玉川は酒を飲み慰め脱藩をすすめたが和泉はその夜、玉川の家を忍び出て先祖の墓地に行き銃をあて自殺した。
時、文久2年(1862)6月2日 年27才

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