那須俊平重任の墓

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(1807〜1864)
梼原の郷士、山田喜馬太に槍を、三木広作に剣を学んで武道に通じ、家に道場をつくり弟子を教えた。浜田信吾を娘・為代に配し父子ともに門人を指導した。文久2年(1862)信吾が参政・吉田東洋の首級をはね脱藩すると、人に頼んで槍術皆伝書を与えたのち父子ともに国事に尽くす事を約した。信吾が天誅組に参加して戦死の報があると涙を流して  大君のみことかしこみ仕えなむ 身はずたずたによし裂かれるとも  と感激の一首を詠じた。元治元年(1864)6月玉川壮吉と脱藩、梼山源八郎の変名で松山深蔵の忠勇隊に参加して上京7月19日境町御門に向かったが、越後、会津の兵が固く守っている中に、尾崎直吉とともに槍をふるって突入したが、越後兵・堤五一郎に討たれる。時、元治元年(1864)7月19日 年57才  皇国のためともならん武人の 老の命のあらん限りは
(看板引用)

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