吉村虎太郎重郷の墓

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(1837〜1863)
父太平・母は雪、12歳で父のあとを継いで庄屋となる。須崎浦、下分村、梼原町の庄屋をつとめ治績あり。間崎滄浪の感化を受け勤王愛国に徹し国事に尽くす。文久2年(1862)同志・宮地宣蔵とともに脱藩、長州に奔る。伏見寺田屋騒動のため国に送られ投獄される。後許されて再度上京し同志と共に回天の大業を策し、文久3年(1863)8月、天皇大和行幸攘夷親征の話があったため同志とともに中山忠光郷を奉じその先駆となるため京都を発つ。世に天誅組という。吉村虎太郎はその総裁である。五条に鈴木源内を倒し十津川郷兵1千名を募り高取城を攻めるが、京都に政変があり天皇行幸が中止となったので大義名分を失う。援軍失く忠光卿と別れ大和の国吉野鷲家口にて戦死する。時 文久3年(1863)9月27日 年26才
(看板引用)

吉村虎太郎重郷の墓

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