吉村虎太郎像

四万十川

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高岡郡津野町芳生野

先生は天保(八年四月十八日芳生野村(現在木村芳生野)庄屋吉村太平の長男として生れました。非常な秀才でわずか十一歳で北川村(現在木村北川)庄屋となり、その後須崎浦(現在須崎市須崎町)庄屋下分村(現在須崎市下分)庄屋を経て、安政六年梼原村(現在梼原町梼原)庄屋となり各地で治績をあげましたが、文久元年に武市端山とともに土佐勤王党を組織して勤王に奔走するようになりました。文久二年正月にはひそかに防長を遊歴九州に渡り平野国臣にあい「島津久光の入京の機に挙兵する」ことを約束して帰藩武市端山を説きましたが端山は「藩を挙げてやるべきだがまだ藩論がきまっていない」といって応じませんでしたので、坂本龍馬に脱藩をすすめ自らはいち早く宮地宣藏と二人で脱藩平野の義挙に加わろうとしましたが寺田屋の変にあい舟牢で高知に送りかえされ十二月まで獄窓で過ごしました。文久三年二月再び上京王事に奔走八月には明治天皇の叔父君に当る中山忠光郷にすすめて大和義挙を計画忠光郷を隊長に自らは総裁となっていわゆる天誅組を組織し天皇の大和行幸に先駆けて大和を平定して錦旗を迎え奉ろうとし江戸幕府直轄の五条市代官を襲撃しました。その時朝議が一変し大和行幸はとりやめになりましたので事志と違ってしまいました。しかしこれまできたからには初志を貫徹しようと高取城の焼討をはかりました。この時不運にも味方の弾丸にあたり負傷し戦は惨敗に終わりました。これより十津川に転戦しましたが時に利あらず九月二十七日鷲家谷(現在奈良県東吉野村鷲家谷)石の本に金谷健吉一隊の銃弾のもとに「吉野山風に乱るるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙とみよ」の辞世を残し二十七歳の若さで散華しました。この義挙は数多い維新の動きの中で千余の兵力をもって堂々たる統幕倒幕第一陣であり、この烽火によって全国に倒幕の運動はくり広げられることとなり大政奉還を見、四民平等の維新は成就されたのであり、その業績は高く評価せられています。なお本村には能津生まれで芳生野に養子に来て吉村虎太郎先生と行動を共にしたが惜しくも大和義挙の十六日前に病気でたおれた宮地宣藏先生や北川に生まれ忠勇組長として元治元年七月二十一日天王山の戦いに散った松山深藏先生同じく北川生まれで吉村虎太郎先生の義兄にあたり元治元年忠勇組伍長として九門の変に活躍七月十七日傷を負って鷹司邸で切腹して果てた上岡胆治先生等の志士も居られますが明治百年記念事業としてはこれら志士を代表し吉村先生の銅像建設を計画しました。(石碑文抜粋引用)

吉村虎太郎像

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